演奏会記録 #001 ~ ヤルヴィ 指揮公開クラスで垣間見た、「人に伝える」ということ

投稿日: 更新日:

先週の月曜日、東京音楽大学のホールで行われた
パーヴォ・ヤルヴィによる指揮公開マスタークラスを見に行ってきました。

厳密には演奏会ではないですが…便宜上、このカテゴリに分類しておきます。

2016.02.08 パーヴォ・ヤルヴィ指揮公開マスタークラス

受講生は5人、課題曲はモーツァルトの交響曲第41番 “ジュピター” 。
音楽大学有志のオーケストラを相手に5人がそれぞれ指揮をして、
ヤルヴィから指導を受けるという内容です。
休憩を含めてまるまる3時間でしたが、
全く長く感じられないほど面白いものでした。

そのなかで、ヤルヴィが特に繰り返し言っていたことがあり、
今回はそれをまとめてみたいと思います。


歌うこと

ブレスをして、ひとつのメロディをひと息で歌うように演奏するのは
どのような奏者にとっても重要なことの一つです。
それは指揮者にとっても同じであり、
充分な息を吸って、フレーズを繋げていくのを忘れてはいけないということです。
テンポを決めるときも、自分で実際に歌ってみれば、
ちょうどよい速さがみえてきます。


拍子を打つことに終始せず、音楽をつくっていくこと

奏者たちは、拍が誰かに打たれていなくても、自らでアンサンブルできます。
ですから、拍子を打つだけなら指揮者は必要ないということになってしまいます。
では、指揮者の仕事とは何か?というと、
音に息吹、いのちを吹き込むことだとヤルヴィは言います。
彩りを与える、メロディの絡みをコントロールする、楽器バランスを整える etc.…
特に、モーツァルトの音楽は「オペラ的」なものであり、
自分の中に男性と女性を出現させて自分の物語を描いてみることが
いきいきとしたキャラクターを表現する助けになるようです。


できるかぎりシンプルにすること

前項の「拍子を打つことに終始しない」に共通することですが、
拍だけを打ったり、逆に情報が多すぎたりせずに、
ひと目でどのような表現なのかがわかるように
見た目を制御するということです。

たとえば、 f の部分であってもその後に cresc.や piu f が現れるなら、
はじめは動きを小さめにしておく方が効果的な表現ができます。
また、最初にテンポが決まってしまえば、拍をずっと打ち続ける必要もありません。
拍や時間よりも、どういった音楽にするのかを、棒に現していくのです。


はっきりと伝えること

どのように音楽を作っていくのか、どう演奏してほしいのかが
奏者にはっきりと伝わるように、
シンプルな言葉を使い、相手を見て、相手に届く声で話すようにします。

今回ヤルヴィはすべて英語で話し、翻訳の方もいましたが、
受講生に話すときは必ずその受講生の方を向いて
わかりやすい英語を使い、短い言葉で話していました。


自信を持つこと

まず身体全体に関しては、猫背になったり、膝を曲げたりしないように、
体の重心と軸をしっかりと保ち、まっすぐに立ちます。
それを土台にしたうえで、迷いのある棒にならないようにします。
特に曲の最初で着地に迷うと、奏者もうまく入れなくなってしまうのです。

そして、指揮者として自信を持つということについて、
ヤルヴィの言葉はこのような内容でした。

ステージは好きなことができる場所だ。
たとえシャイであっても、ステージに立てば
自分のことは忘れて別人になりなさい。
「あなた」ではなく「音楽」になりなさい。
何も悪いことはしていないのだから、「すみません」の姿勢を捨てよう。


以上の言葉は、演奏や作曲にも共通して言えることかもしれません。
とりわけ、「シンプルにする」「はっきり伝える」「自信を持つ」の3つに関しては
表現することそのものにも関連していることでしょう。

今回のマスタークラスは、NHK Eテレの「クラシック音楽館」で
5月頃に放送されるようですから
忘れないようにチェックしておきたいですね。

広告

作曲 #003 ~ 新たな音楽を、求めにきてください

投稿日: 更新日:

数字だけで選ばれた音。
非常に複雑なリズム。
難解なコンセプトやテーマ。
現代の音楽は、聴くのも演奏するのも、とても難しいものが多いです。
ですから、そういった音楽を苦手とする方々も多いでしょう。

私自身、かつては現代音楽を好きではありませんでした。
音だけ聴けば苦しく、うるさく、不快に感じたし
曲の解説などを見ても全く共感を持てずにいました。
それでも大学では現代音楽を学んで書くことを求められ、
なによりその音楽に魅力を感じ、楽しんで聴く人が身近にいたために
自分には感性がないのだという惨めな気持ちになったことも多々ありました。

でも私は、そもそもあまり曲数を聴いていなかった。
だからずっと、いろんな人のいろんな音楽を聴き続けました。
現代の音楽が全て聴きづらいものばかりではないと気づいたり、
汚い、不快としか思えなかった音に
叫びのように迫る美しさを感じたりするようになるまでです。
それでもあまりにも広大すぎる音楽の世界を
全てわかるようになることは、きっとないなと思うのです。

作曲家の人々はみな、「難しい」音楽を書くことを目的としたわけではなく
新しい、聴いたこともない音楽を求めて模索した結果なはずなのです。
「わからない、これが音楽なのか?」という問いは
あなたの音の世界を広げるきっかけとなると思います。

私も、作曲家の一人として音楽を作ることを少しずつ続けています。
難しい音楽だと思われるかもしれません。
あるいはつまらないとも、変だとも。
でもそれでいいんだと思います。人の数だけ、音楽もあるのです。
あまりにも広いこの世界で、好きになれる音楽なんてほんの一部です。
そして、なんでもありなんです。
なんでもありって、わくわくしませんか。
まだ聴いたことのない音楽があるとしたら。
私もそれを探しに行っています。
あなたもそれを探しに、私たちの音楽を聴きに来てくれたら、
それはとても嬉しいことです。


最後に、拙作が演奏されるコンサートのご案内です。

雪国の作曲家たちによる新曲作品展 vol.1 〜もうひとつのキラキラ星〜

最終稿 表最終稿 裏

■東京公演
[日時] 2014年12月1日(月) 19:oo開場、19:30開演 (21:15終演予定)
[会場] タワーホール船堀 小ホール
■金沢公演
[日時] 2014年12月8日(月) 19:oo開場、19:30開演 (21:15終演予定)
[会場] 金沢市アートホール
■大阪公演
[日時] 2014年12月9日(火) 19:oo開場、19:30開演 (21:15終演予定)
[会場] 阿倍野区民センター 小ホール

入場料¥2000、全席自由

旭井 翔一(福井県出身)、佐原 詩音(石川県出身)、助川 舞(北海道出身)の
雪国の作曲家3人による演奏会。
みんな、とっても個性的です。割とやりたい放題!
演奏者のみなさんも素敵な方ばかりです。
ソロ曲から、作曲者含め全員で演奏する曲まで、編成は多種多様。
本当に面白く楽しく不思議なコンサートになると思っています。
最後にはそれぞれが “キラキラ星” のメロディを素材に作った
新たな音楽が演奏されます。
ぜひ聴き比べて、キラキラ星を探してみてください。

 

Orchestra Ensemble Free East 第3回演奏会

[日時] 2015年3月7日(土) 13:00開場、13:30開演

[会場] ルネこだいら 大ホール

[曲目]
助川 舞: 溟渤を織る星の糸 (委嘱作品・世界初演)
プロコフィエフ: 交響的協奏曲*
ストラヴィンスキー: バレエ音楽《ペトルーシュカ》(1947年版)

*チェロ独奏:西方 正輝
指揮:浅野 亮介

前回書いた、3度目のオーケストラ作品が演奏されます。
先のキラキラ星の演奏会の曲と同時進行だったためか、
これも “星” がテーマになっていますね。
溟渤(めいぼつ)とは、「果てしなく広い海」を表します。
大昔のどこかで、星の満ちた夜空は遠くで流れる広大な海であり、
星はその上を滑りゆく舟。
また別のどこかでは、夜空は一枚の巨大なタペストリーと考えられていたとか。
現代の私達はもはやあまり見ることができなくなってしまった
輝かしい無数の星々に対するあこがれのようなものを
感じながら書いた作品です。

この演奏会には私も拙作以外ヴァイオリンで参加します。
情熱あふれる指揮者の浅野さんはじめ、
アンサンブル・フリー・イーストのみなさんも
素晴らしいチェリストである西方さんも
このプログラムも、とても好きです。
そんななか演奏だけでなく、作曲でも参加できることが
本当に嬉しいです。
きっとエネルギーに満ちた、熱い演奏会になることでしょう。
ぜひ驚きに来てください。

作曲 #002 ~ オーケストラという編成に対する思い

投稿日: 更新日:

半年ほど取り掛かっていたオーケストラ作品が
つい先日、やっとひと段落の完成を迎えました。
この編成で、編曲を除いての曲を書くのは3度目になりますが、
最初の2曲はまったく出来の悪いものでした。

私は、オーケストラという大きな編成の曲を作るということに
ひとつの必要性も魅力も感じなかったのです。
しかし、大きな作曲賞などを見ると
いまだこれが最高峰の編成のように存在しています。
だから私も、オーケストラ作品は書ける書けないは関係なく
書かなくてはならないものと思っていましたし、
大変ありがたいことに委嘱も受けたので、
自分への大きな課題として3度目に挑戦することとなりました。

ヴァイオリンとしてオーケストラの演奏に関わるのも長くなり、
他の楽器のことも少しわかるようになって
前よりは書けるようになっただろうと思いました。
実際、書き始めは以前よりもずっと楽になり、
今度こそできるかもしれないという希望が湧きました。

しかし問題は、もっと別のところにありました。
オーケストラの新作は10分〜15分の長さがあるのが
一般的とされているように思います。
ここでも私はそのことにとらわれ、
少なくとも7分程度は持たせなくてはという考えに
とても悩まされ、苦しみました。

私はどうしても、長い曲を作ることができませんでした。
「この曲はこれだけがやりたい」、それが完了したら
もうそれ以上引き伸ばしたり、飾ったり、説明したり、
そういうことが一切できなかったのです。

何かを表現するときはなんでも十分な長さが必要であって
それができないのは力量不足である、と言われれば
そのとおりなのだと思います。
でも私は、音楽で物語を作るよりも、
音そのものを作りたいと思うのです。
話の流れや展開よりも、ことばの一つ一つが好きなのです。

結果的に、作品は5分もないくらいの短いものに
なってしまいましたが、やりたいことは十分やった、
と言えるものにはできたと思っています。

音楽なんてもっと自由で良いはずなのに、
「オーケストラ作品は書かなければならない」
「10分程度の長さでなければならない」
という、二つの “なければならない” に縛られていたとは
滑稽なことですね。
狭い世界で評価されるために刷り込まれてしまった
呪いのようなものです。

何かにどうしようもなく行き詰まっているとき、
自分でいつの間にか作り上げてしまった義務感が
大きな石となって道を塞いでいるというのは
よくあることなのかもしれません。

 

雑記 #002 ~ 演奏するということ

投稿日: 更新日:

先日ひょんなことから、日本音楽コンクールのピアノ部門の
第一次予選会を少しだけ聴く機会がありました。
聴いたのは7〜8人の演奏だけでしたが、思うことがあったので
ここに書いておきます。

やはり国内の音楽コンクールを代表するだけあって、
技術のレベルはとても高いと思いました。
演奏された曲は、6つの変奏曲からの選択式であり
同じ曲が何度か聴けるため、解釈の違いが聴けて面白いです。

その中で、同じ曲を弾いたある二人の演奏の違いが
非常に印象に残っています。
一人は、タッチが未熟な感じがして技術が追いついていないように
聴こえるという点もありましたが、何よりも
非常に退屈に聴こえてしまったのです。
すべての音量が同じように聴こえ、
前進する力さえも感じられませんでした。

その曲の演奏を聴いたのはそれが最初だったので、
「この曲は魅力的に弾くのが難しいのかな」と最初は思っていました。
しかし、その考えは二人目の演奏を聴いて全く覆されることになります。
メリハリがあり、場面によっては鬼気迫るほどの怒涛の勢いがありました。
すべての部分に筋が通っており、辻褄があっていて、
その結果、非常に素晴らしい音楽として聴かせていたのです。

一人目の演奏はなんだったのかと驚き、考えました。
そこで至った結論は、「楽譜を読み込めていない」ということです。
雑記 #001 ~ 芸術は心の姿をうつす鏡 では
“間違った解釈”はあるのだろうか?と問いました。
解釈とは、まずその作品について熟慮することだと考えます。
私は、解釈に正しいも間違っているもないというスタンスです。
ところがその一人目の演奏は、「解釈がそもそもされていない」のではないか。
だから、流れが滞った、退屈な演奏になってしまったのではないか。
そう思いました。

演奏というのは、曲の魅力にこれほどまで影響するのだということを
改めて強く感じる体験となりました。

演奏者とは、楽譜に残された音楽の幻影から、
身を捧げて全身でその姿を現させる存在だと考えています。
そしてそのためには、作曲家のことや時代のこと、
楽器のこと、演奏技術だけでなく、もっと根本的な
音の動きそのものが持つエネルギーを知るために
たくさん勉強する必要もあるのでしょう。
楽譜から一個一個の音を読んでそれをひたすら忠実に弾く、
というのでは残念ながら、なんの音楽にもならないのです。

作曲 #001 ~ 音楽作りのバランス

投稿日: 更新日:

アウトプットすると、エネルギーを多く消費します。
最近私は文章を書くのはだいぶ楽になったのですが、
音楽を作るとなると全く変わらず
吐きそうなほどエネルギーを使い、疲れ果てます。
考えてみると、音楽を作るときに必要なものといえば

  1. 曲全体のアイディア
  2. 1を実現するための技術
  3. 楽器の知識

パッと適当に挙げましたがだいたいこの3つだと思います。
これを記事などの文章を書くことにたとえると、

  1. 記事に書きたい内容
  2. 1をわかりやすく伝えるための文の書き方
  3. 語彙

となりましょうか。

まずは1を練ります。
この段階では、たとえば「A部分がだんだん広がって、B部分に干渉して云々」
というように “ことば” で考えたり、
イメージを絵や線を書きなぐって考えたりします。

1が固まってきたら、2に移ります。
これがまあ当然というか、最も大変なところです。
作曲に費やす時間の9割はこの過程でしょう。
ここでは、”音楽にしてみたら思ったより面白くない” とか
“考えてることが全然表現できない” とか
“想像以上に時間がかかりすぎる” という問題がたくさん出てきます。
一度固めた1のアイディアもどんどん変わっていきます。

私にとっての最大の問題は、
“音楽にしてみたら思ったより面白くない” と感じてしまうことでした。
でもこれって、少し傲慢なことなのではないかと思ったのです。
というのは、音楽を作るのは、作曲者だけではないからです。
演奏者もです。
彼らは楽譜をもとに、新たな音楽を作ります。
だから、楽譜だけでは面白くなくても、
演奏でいくらでもエキサイティングになるということを、
作曲している間はよく忘れてしまうものです。
ですからここに書いて、覚えておくようにします。

雑記 #001 ~ 芸術は心の姿をうつす鏡

投稿日: 更新日:

音楽を聴いたとき、絵を見たとき、詩を読んだときに、
その作品に”全く”関係ないものを思い浮かべることはありません。

一見関係なく思えるものでも、
何らかの共通点が1点でもあれば
関係があると言えます。
作者が意図していることと真逆であっても、
“同じ線上”の反対の方向ということで
関係があると言えます。

そして、人々が何を思い浮かべるかは
それぞれの思考に影響し、
人によって姿形を変えます。
つまり、”作品が何を表現しているかは、受け取る人に依存する”
ということです。

知識があれば、芸術は正しく解釈できるのでしょうか。
偉大と称されている作品をわかろうとしても
わからないでいることは、恥となるのでしょうか。
“間違った解釈”は、あるのでしょうか。

人の心のなかにくすぶる色々な種類の感情、考え、思い、感覚、
そういったものを自覚させ、ときに増幅させるものが
作品であり芸術ではないか、と私は考えています。

展覧会記録 #001 ~ “特別展 ガウディ×井上雄彦”への雑感

投稿日: 更新日:

ガウディを知ったとき

かつて私が高校生だったころ、
国語の授業では《自由なテーマで作文を書く》という時間を
与えられることが何度かありました。
私はそのうちの一つに、以下のようなことを書いた記憶があります。

「私たちのまわりのもの、建物、本、道具などほとんどのものが直線であふれているけど、
まっすぐ立つ木の幹には凹凸があるし、地平線や水平線も大きな弧。
自然のものには曲線しかない。」

これが正しいか間違っているかはともかくとして。
この作文に国語の先生から赤ペンで書かれた
「ガウディを思い出す。」というコメントが、
私のガウディに関する最初の記憶です。

しかし知らないことを自ら調べて知るということに対して
怠惰だった私はそのまま、彼のことも特別調べることはなく、
ついこの間まで “サグラダ・ファミリアのひと” なんて
程度の知識にとどまっていたのです。


建築へのあこがれ

それとは関係なく、大学に入ってからは
美術学部の建築科の学生による展示を見に行ったり、
住宅の雑誌を眺めることが多くなりました。
きっと、ひとが生活する “空間” そのものをつくりあげる建築に、
あこがれと羨望の気持ちがあったのだと思います。

そして昔から組み合わせパズルやレゴブロックが
大好きだった私は案の定というか、
半年ほど前からMinecraft1 に病み付きとなりました。
家をつくるために、あらゆる間取り図を見、あらゆる建築様式2 を知り、
建築物の基礎構造まで調べたりしたのでした。

ちなみにこんなものを作って遊んでました。
外観だけで満足しました。

minecraft_001


展覧会へ

チラシ

そんななか、特別展 ガウディ×井上雄彦 – シンクロする創造の源泉 – の情報を
ちらりとどこかでみて、最初は
「あー、ガウディかぁ、」というとてもぼんやりとした印象でした。
ガウディのことも、井上雄彦のこともほとんど何も知らず、
特に井上雄彦に至っては一冊も漫画を読んだこともありませんでした。
しかしなぜだか、後からむくむくと好奇心が膨らんできて
「そうだ今から行こう。」と出し抜けに思い立ち、展覧会へ行ってきました。


自然がつくりだす曲線

展示を見始めてすぐに、ああ来てよかったと思いました。
やっぱり建築の展覧会はとても楽しいです。

ガウディの書いた設計図や模型に
終始興奮が止まりませんでしたし、
圧倒的な形の美しさと色鮮やかさをもつ
建築作品の写真群にはとても惹き付けられました。

そのなかでも、私が最もすきなのは
曲面で覆われたカサ・ミラとカサ・バトリョ。
あの今にも動き出しそうな、やわらかそうな壁の曲面が
どうしようもなく美しくて、
思わず手を触れたくなってしまうほどでした。

偉大な本、常に開かれ、
努力して読むに値する本、
それは、大自然の本である

上の言葉を残しているように
ガウディは生涯、自然と向き合い、
それを建築に取り入れてきたといいます。
“自然” が、彼の描き出す曲線を
ここまで美しくしているのです。

ガウディの建築作品は、ここでかいま見ることができます。
展覧会に行っていないという方には特におすすめします。


最高の組み合わせのふたり

井上雄彦の漫画や絵も、ほんとうに素晴らしいものでした。
漫画という形で、ガウディとその周りの人物の
姿、性格、彼らをとりまくストーリーが、
ガウディの作品の合間に描かれていました。

“歴史上の人物” でしかなかった、
“歴史上に残っているから私たちとは違う遠くて偉大な人々” だった彼ら。
井上雄彦の漫画は、そんな私たちと彼らの間の溝に橋を渡し、
一気に間近な存在として見せてくれたのです。

ガウディと井上雄彦、
ふたりの組み合わせは最高でした。
このふたりでなければ、ここまで魅了されることは
なかったかもしれません。


おわり

長くなりました。
まだ書きたいこともありましたが、
まとまりがなくなってしまいそうなのでここで止めておきます。
感想って難しいですね。この文章を書くのに
ずいぶん時間がかかってしまいました。
でも、今までないくらい興奮して、しかもそれが途中で冷めることなく
座って休むことも惜しくなるくらい次へ次へと進みたくなる…
こんな展覧会ははじめてでした。
だから、どうしても文章にしてみたかったのです。

展覧会に来てはカタログとクリアファイルを買うのが恒例です。
今回もまたコレクションが増えましたが、
そろそろ本棚が満席になってしまいそうです。

カタログ

 


  1. 立方体のブロックでできた世界で生活するゲーム。地下で鉱石を採掘したり、たてものを作ったりして楽しむ 
  2. “住宅様式” で画像検索すると幸せになれます